LOGIN煌は美咲へ顔を向け、まっすぐ見た。 「婚約は解消します。私が愛しているのは、糀さんです」 その声に迷いはなかった。 「家同士の問題もあるため、きちんと終わらせるには時間がかかります。ですが、結論は変わりません」 婚約はまだ終わっていない。それでも、美咲の前で迷いなく言い切ってくれたことが嬉しくて、体がじんわりと温かくなった。 隣で、千尋が少し驚いた顔をしたあと、糀に向かって微笑んだ。 美咲の笑みが消えた。 煌がさらに何かを言おうとした。 「煌さん」 糀は首を横に振った。 煌は口を閉じ、糀を見た。 煌に庇われてばかりではだめだ。 ここは、自分で言おう。 糀は美咲へ向き直った。 「三席しかないって笑いますけど、美咲さんのお店は、あれだけ席があってもがらがらじゃないですか」 「何ですって?」 「それに、祖母に会ったこともないのに、知ったようなことを言わないでください。九条ホテルに選ばれたからって、祖母から何も習っていないことは変わりません」 糀は一度、口を閉じた。 怖くないわけではない。 それでも、大きく息を吸い、美咲をまっすぐ見た。 「卑怯なやり方には、負けません。勝負します。祖母の味を受け継いだのが誰なのか、私の料理で証明します」 美咲は一瞬、気圧されたように口を閉じた。 美咲が何か言い返そうとした時、手にしていたスマートフォンが鳴った。 「はい、高橋です。……九条ホテルへ? 今からですか」 電話を切ると、美咲は急に得意そうな顔になった。 「九条ホテルから呼び出しよ。私がいなければ、勝負の料理が進まないもの」 美咲は向かいの店へ戻り、慌ただしく戸に鍵をかけた。 「あなたの相手をしている暇はないわ。せいぜい、今のうちに強がっていれば?」 そう言い残し、早足で通りを去っていった。 美咲の姿が角の向こうへ消えるまで、煌は何も言わなかった。 それから秘書へ目を向ける。 少し離れた場所で待機していた設備会社の車が、通りへ入ってきた。 車から降りてきた顔ぶれを見て、糀は目を見開いた。 秘書だけではない。設備会社の作業着を着た男性が三人、その後ろには、スーツ姿の責任者らしい男性もいる。 「社長。現場はこちらで確認いたします」 「私も見ます」 煌が短く答えると、
糀につられるように、千尋も店内を見回した。 「何か、心当たりがあるんですか」 糀は答えず、スマートフォンを持って立ち上がった。 「少し、外で話しませんか」 戸を閉めて通りへ出てから、新しい店の名前を決めた日のことを話した。 《澄乃糀》という名前は、煌と店の中で決めた。その場で登録しただけで、まだ一つも投稿していなかった。それなのに、美咲からすぐに削除するよう連絡が来た。 「美咲さんに、名前を話した人がいたのでは?」 「煌さんは話していません。私もです」 名前だけなら、偶然見つけたと言われるかもしれない。 けれど、雨の日の料理まで同じだった。 「高森さん。あの日の料理のことを、誰かに話しましたか」 「友人に、美味しいものを食べたとは話しました。でも、料理名も作り方も話していません」 千尋は写真も撮っていない。煌も、出された料理を食べただけだ。 千尋が、『糀ごよみ庵』の公式投稿をもう一度開いた。 料理へのこだわりとして、こう書かれている。 《根菜は玉ねぎ麹と一緒に弱火で煮ています。焼きおにぎりは甘酒味噌が焦げやすいので、表面だけを軽く焼きました》 「これも、あの日、三浦さんが私に説明してくれた通りです」 その言葉は、料理を出した時、千尋の前で話した。昔の「糀ごよみ」にも、新しいアカウントにも書いていない。 料理を見ただけでは、火加減まで同じ言葉になるのはおかしい。 糀は店の前から、閉じた引き戸を見た。外からは、厨房もカウンターも見えなかった。 「盗聴とか盗撮とかされてるんでしょうか」 「調べてもらいます」 煌へ電話しようとして、画面の上で指が止まった。 また、婚約者のいる人に頼っていると責められるかもしれない。 けれど、煌は勝負を手伝いたいと言ってくれた。 今は、その言葉を信じよう。 糀は一度息を吸い、煌の名前を押した。 呼び出し音が一度鳴っただけで、低い声が聞こえた。 「煌さん。店のことで、確認したいことがあります」 雨の日の試作と、新しい店の名前が美咲へ漏れていたことを話す。煌は途中で口を挟まなかった。 すべてを聞き終えると、短い沈黙があった。 『あの人なら、やりかねません』 誰のことなのだろう。 糀が尋ねる前に、煌の声が低くなった。 『気づかなかったふ
「意地悪なこと?」 千尋は頷き、スマートフォンをカウンターへ置いた。 画面には、旧「糀ごよみ」へ千尋が書き込んだコメントが映っていた。 《六年前、私が具のない味噌汁を作ったと送った時、返信と一緒に、どんな料理の写真を送ってくれたか覚えていますか》 その下に、旧「糀ごよみ」からの返信がある。 《もちろん覚えています。豆腐とわかめの味噌汁です。あの時、もっと栄養を取ってほしくて、私が作ったものを送りました》 「……写真?」 糀は六年前のやり取りを思い返した。 仕事に追われ、朝も昼も食べられない。そんな千尋が、やっと自分のために作った具のない味噌汁だった。 もっと栄養を取って。次は具を入れて。 あの時の糀は、そんなことを言いたくなかった。温かいものを作れたなら、それで十分だと伝えたかった。 豆腐とわかめの味噌汁の写真を送った記憶もない。 「私、写真は送っていないと思います」 「はい。最初から、そんな写真はありません」 千尋は別の画像を開いた。 六年前の日付がついた、当時のやり取りだった。 《今日は、具のない味噌汁だけ作れました》 《温かいものを自分のために作れたなら、それで十分です》 それだけだった。写真はなかった。豆腐もわかめも勧めていない。 「知らないなら、覚えていないと言うか、返信しないと思ったんです。でも、あの人は、なかった写真まで自分が送ったことにしました」 千尋が小さく笑った。 「あの人、引っかかりました」 書き込んでから十分ほどで返信がつき、その直後に千尋のコメントごと削除されたという。千尋のアカウントは、旧「糀ごよみ」からブロックされていた。 「消されると思ったので、最初から画面を録画していました」 千尋が動画を再生する。 コメントを書き込む前の画面から始まり、旧「糀ごよみ」の返信がつく。しばらくするとコメントも返信も消え、最後にはアカウントを見られなくなった。 すべてが、一つの動画に残っている。 「美咲さんは、嘘をついたんですね」 「はい。六年前から自分が『糀ごよみ』を書いていたなら、なかった写真を送ったなんて答えるはずがありません」 千尋は、六年前と昨日の画面を並べた。 「でも、忘れていただけだと言われたら?」 「実は最近、今の『糀ごよみ』は嘘をついているん
翌日、昨夜連絡をくれた高森千尋が澄乃糀へやってきた。 髪も服も濡らし、仕事の書類が入った茶封筒を抱えて、開店前の店先に立っていた女性だ。 あの日、糀は千尋を三席の真ん中へ通し、玉ねぎ麹を入れた根菜の汁物と、甘酒味噌を塗った焼きおにぎりを出した。料理を口にした千尋は泣き、糀が以前の「糀ごよみ」を書いていたと気づいてくれた。 新しく作った「澄乃糀」の最初のフォロワーになってくれたのも、千尋だった。 「公開料理対決のこと、見ました。私にも協力させてください」 挨拶を済ませるなり言われ、糀は戸惑った。 「ありがたいですが……。どうして、そこまでしてくれるんですか?」 千尋は少しだけうつむいた。 「あの雨宿りのあと、久しぶりに、しっかり眠れたんです」 雨に濡れた書類を見て、情けないですよね、と笑っていた顔を思い出した。 「あの日のご飯が美味しくて。次の日は朝ごはんを食べました。濡らしてしまった書類も作り直して、もう一度、仕事先へ行ったんです。失敗したから、もう駄目だと思っていたのに、謝って出し直したら、受け取ってもらえました」 千尋は顔を上げた。 「その仕事、今もうまくいっています」 あの日は泣きそうな顔でうつむいていた千尋が、今は糀をまっすぐ見ている。 「三浦さんの料理を食べて、もう一度やってみようと思えたんです」 料理を出したあと、その人がどんな朝を迎えたのかまでは分からない。千尋が眠り、朝ごはんを食べ、もう一度仕事へ行ったことを、糀は今初めて知った。 嬉しかった。 家族には、古い、地味、いらないと言われた料理だ。それでも千尋は、その料理を食べた翌朝、また仕事へ行けたと言ってくれた。 「三浦さんの料理で、元気づけられている人がいるんです。私だけじゃありません」 千尋はスマートフォンを取り出した。 画面には、「糀ごよみ」と名づけられたフォルダがあった。 「昔の『糀ごよみ』の投稿、ずっと保存していたんです。投稿が消えても作れるように、好きな料理は画像に残していました」 塩麹に漬けた鶏肉。具の少ない味噌汁。季節の野菜を使った小さなおかず。料理の写真だけではなく、作った日のことや、食べる人を気遣う文章まで残っている。 千尋は昨夜、自分の名前で呼びかけていた。 《昔の「糀ごよみ」の投稿を保存している方
店の戸締まりを済ませると、黒い車が表通りで待っていた。 後部座席へ並んで座っても、煌は行き先を言わなかった。窓の外を流れる明かりを見ている横顔は、もういつもの冷静なものに戻っている。 それでも糀は、先ほど唇が触れそうになった時の、わずかに速い呼吸を思い出してしまう。 婚約が終わるまではだめだと言った。後悔はしていない。それなのに隣にいるだけで落ち着かず、糀は窓の外へ顔を向けた。 車は、古い日本家屋の前で止まった。 高い塀と閉じた門の向こうに、大きな庭が見える。煌が門を開けると、夜の冷たい空気に、枯れ葉と湿った土の匂いが混じった。 「ここは?」 「祖父が暮らしていた家です」 煌は迷わず廊下を進み、奥の書斎へ入った。壁一面の本棚と、大きな机が残されている。机の端には、眼鏡まで置かれたままだった。 煌は眼鏡を一度見たが、触れなかった。 「祖父の遺品は、ここにも残っています」 煌は棚から古い木箱を下ろした。 蓋には、宗一郎の字で《澄乃》とだけ書かれていた。祖母に関するものだけを、この箱へ大切に残していたのだ。 中には、新聞の切り抜きや手紙が年代順に束ねられている。糀も隣へ座り、一枚ずつ確かめた。 祖母が宗一郎へ送った短い礼状もあった。糀の知っている、少し右上がりの字だった。料理の材料や店の仕入れ先については細かく書いているのに、自分の気持ちには一言も触れていない。 写真の中では、あんなに幸せそうに笑っていたのに。 やがて、九条グランドホテルの名が大きく印刷された記事が出てきた。 《幻の名店『澄乃』の味を、九条グランドホテルが正式継承》 糀は息をのんだ。 紙は黄ばんでいる。それでも、美咲の発表とほとんど同じ言葉だった。 記事には、九条が保管する資料をもとに、ホテルの料理人が澄乃の味を再現すると書かれていた。祖母の写真も、言葉もない。どこにも、祖母が認めたとは書かれていなかった。 「昔も、九条は祖母の料理を自分たちのものにしようとしたんですか」 「祖父は、何も話しませんでした」 煌が次の切り抜きを広げた。 《澄乃側、公開試食会を辞退》 記事には、澄江が姿を見せなかったため、九条側の料理だけが披露されたと書かれていた。 欠席した理由は書かれていない。まるで、祖母が怖くなって逃げたと決まっ
《今ならまだ、勝負を辞退できます》 送り主の名前には、見覚えがなかった。 投稿も何もないアカウントだった。けれど、明日の三席がすべて空いた直後に届いた。偶然とは思えない。 辞退すれば、これ以上、店を傷つけられずに済むのだろうか。 こんな脅しに屈したくない。でも、空になった予約帳を見ると、その気持ちが少し揺らいだ。 開店して、ようやく来てくれる客が増え始めたところだった。一度ついた悪い評判が消えないことは、旧「糀ごよみ」を奪われてから嫌というほど知っている。 料理を作って待っても、誰も来ない店に戻るかもしれない。 明日のために引いた出汁も、下ごしらえを終えた食材もある。三人に食べてもらうつもりで用意したものだ。 勝負を降りると返せば、あの投稿は止まるのだろうか。 糀の指が、返信欄の上で止まった。 怖かった。 けれど、投稿と三件のキャンセルを見比べているうちに、怖さより腹立たしさの方が大きくなってきた。 糀は何も悪いことをしていない。修司と美咲に裏切られ、店も料理もアカウントも奪われた。煌に婚約者がいることだって知らされていなかった。 それなのに、なぜ糀が料理を諦めなければならないのだろう。なぜ、ここまで悪く言われなければならないのだろう。 糀はスマートフォンを煌へ差し出した。 画面を見た煌の目から、温かさが消えた。 「これは脅しです」 低い声だった。 「私が止めます」 「いえ、もういいです」 煌が驚いたように糀を見た。 「なぜですか。……怖くないんですか?」 「怖いです。また誰も来なくなったらと思うと、怖いです」 声に出すと、指先がさらに冷たくなった。 「でも、逃げたくありません。私は、何も悪いことをしていないから」 糀は予約帳から顔を上げた。 「私は、料理で勝負します」 煌が驚いたように目を瞬かせた。 それから、糀を見つめる瞳がふっと柔らかくなる。 「……澄江さんと同じです」 「祖母と?」 煌は頷いた。それ以上は何も言わず、糀を見つめている。 「あの人も、同じことをおっしゃいました」 「おばあちゃんが……」 一体、何があって、どうして祖母はそんなことを言ったのだろう。 「その時、何があったんですか」 煌は答えなかった。 その沈黙が、かえって気